【代表・西方インタビュー】幼少期からコンピュータとゲームに夢中。社会人でゲームに再会 -ミッション・ビジョン・バリューができるまで(前編)-

代表取締役・西方智晃

リーン・ニシカタは、次のビジョン、ミッション、バリューを掲げています。

  • ビジョン:「価値の創出に熱中できる世界」の開拓
  • ミッション:“現場”における意思決定者の参謀役に
  • バリュー:圧倒的リスペクト、徹底的アウトプット、自律的チームワーク

ビジネスにおいて数多ある重要事項の中、なぜこれらを掲げているのか。それは、自分の幼少期からの経験に端を発しているのかもしれません。


幼少期からパソコンとゲームに没頭

子どものころにパソコンが発売されて大ブームとなりました。自分はファミコンではなく、親が買ってきたパソコンを使うようになりました。パソコン雑誌に掲載されているプログラムを打ち込むと、簡単なゲームができる。そのことに夢中になり、飽きたら自分で書き換えて動かして遊ぶのです。小学校3年生くらいから、そんな遊びをしていました。

高校生になると、お金を貯めて自分用のパソコンを買いました。バンドやシンセサイザーにあこがれて、DTM(デスクトップミュージック)で音楽を作っていました。当時はツールが充実していないからとても難しい。でも、作りたい音を攻略するのが楽しくて夢中になっていたのです。

パソコンを使ってプログラミングすることで、自分で好きなように作り変えてプレイできる。それは何にも勝る楽しみでした。自分で買ったパソコンで、それまでより使用できる色の数が増え、扱える画像の解像度が高くなり、表現力が格段に上がったことにも興奮しました。純粋なゲームとして、ファミコンより面白いものが作れるわけでは決してありません。でも、工夫して作る醍醐味がありました。

高校生の時に登場したのがスーパーファミコン。搭載されていたグラフィックの拡大縮小回転機能に衝撃を受けました。特殊な演算チップの仕組みを調べると、ハードウェアで行列演算を行うことによって実現できるという。その表現のすごさと、学校の数学で習う行列や三角関数がつながったのもいい経験でした。

そこから数学に興味を持ち、大学は理系に進みます。


卒業後はネットバブルの波に乗り、メーカーへ

大学卒業時は、まさにインターネットバブル。どの企業も可能性にあふれているように見えました。大学院へ進学するとチャンスを逃すかもしれないという焦りもあり、卒業後はメーカーへ就職します。

そこでは、内製のRDBMSを開発する部門にいました。ところが、開発は外部の開発会社に委託して、工数管理や調整業務を延々とやることに……。週報を課長に提出して修正し、部長からダメ出しをされ、その結果をまた課長に提出してようやく出来上がったと思ったら、1週間が終わっている。また次の週報を書くわけです。そんな仕事で、世の中の役に立っていると実感できなくなっていました。

入社5年目くらいに転職を考え、B to Cの仕事に魅力を感じてヤフー株式会社にエンジニアとして転職。そこでようやく、仕事がおもしろくなってきたのです。当時のYahoo!Japanは、すでに知らない人はいないほどのブランドだったにも関わらず、作っているメンバーは少数精鋭。開発スピードもとてつもなく早かった。客観的に見ても自分が一番低レベルな状態で、見限られないように必死でした。

今のようなロボット型のインターネット検索はまだ主流ではなく、Yahoo!カテゴリに登録されているサイトから検索する「ディレクトリ検索」が全盛で、自分はその基幹となるデータベースを担当しました。高負荷なトラフィックに耐えられるデータベースを作る責任ある仕事を、入りたての自分に任せてくれるなんて勇気ある会社だと感じつつ、インターネットの裏側の仕組みを学べてとても充実感を覚えました。

その後、もっとユーザー側から見えるサービスの部分を担当したいと申し出て、ECやYahoo!知恵袋の検索の担当にシフトしていきました。「このキーワードで検索されたらどういうサイトをどんな順番で表示させるのが最適か」と考えながら、大量のログを分析して規則性を導き、検索エンジンに組み込んでいくのです。

表に見える部分だけに、ユーザーの声がダイレクトに届いてくるのは刺激的でした。自分の設定ミスでサイトが動かなくなったことが数回ありましたが、わずか数分でクレームが山のように来る。危機感を覚えるとともに、自分の作ったものをそれほどの人が使ってくれているのだと実感しました。

刺激的な時期は長くは続かず、組織の規模が大きくなって分業化が進み、最初のころの刺激は薄らいでいきました。決定打は、Yahoo!Japanのウェブ検索のエンジンがGoogleに置き換わるという事実。自分としては、多くのユーザーが利用するサービスのコアとなる部分に触れられなくなることに寂しさを覚えました。


新興のゲーム産業に参入すべくディー・エヌ・エーへ

そんなころ、世の中を賑わせていたのはガラケーのゲーム。クオリティの高いコンシューマーゲームがあるのに、グラフィックは貧弱、サウンドもないガラケーのボタンをポチポチするようなゲームに、なぜ多くの人が熱中するのか……。これまでウェブサービスのログからデータを拾い上げ、規則性を導く仕事をしていた自分は、その構造がとても気になっていました。

ちょうどディー・エヌ・エーに入った知人がいたのと、ユーザーの行動ログを解析して売れるゲームを作っていきたいというニーズがあり、ガラケー向けプラットフォーム「モバゲータウン」を運営していた株式会社ディー・エヌ・エーに転職することにしたのです。

ヤフーでは、目的や目標が上層部から明示的に与えられていましたが、ディー・エヌ・エーではデータ分析に対する影響力がまだ浸透していませんでした。「データ分析して、何がうれしいの?」という疑問をみんなが持っており、それを払しょくするところから始めなくてはなりません。これまでやってこなかっただけに、自分にとっては大きなチャレンジでした。

開発現場にヒアリングしたり、逆にこちらの意図をプレゼンしたりするために、これまでのやり方を手放して学びなおさなくてはならない。そうしなければ皆の役に立つことができず異動という結果になりかねないと焦っていたのです。

分析データを集めるためには、エンジニアに分析のためのログを実装してもらわなくてはなりません。本来、ゲームを作ることが命題であるエンジニア。その手を煩わせてもメリットがある、と認識してもらう努力が必要です。周囲には、元コンサルタントのような、プレゼンやコミュニケーションに長けた人たちばかり。その方たちに学びながら、くらいついて自分の考えを広めていきました。

開発現場では、KPIツリーという考え方を使って目標を決めていきます。売上が下がったら、それをユニークユーザー数や課金率、課金単価に分解して原因や課題を探っていくのです。とはいえ、多くのユーザーがいろいろな遊び方をしているゲームでは、なにか課題があった場合、すぐに原因が特定できるわけではありません。あたりを付けて検証していくしかない。仮説を立てるためには、ゲームをやりこむ必要があると考えました。自分でとことん遊んで、ログデータから他のユーザーの遊び方と見比べる。それを繰り返すことで、変動する数字の根本原因のあたりを付けることができるのです。

ゲームやサービスを使い込んだからこそ、精度高くあたりを付けて分析できる。その結果をビジュアライズしてわかりやすくプレゼンすると、自分の考えが採用されるとわかってきました。

危機感から生まれた試行錯誤でしたが、ここで自分のスタンスが確立しました。今も、お客様のサービスを使い込んで仮説を立てるプロセスが自分の大事にしているところです。

(取材・執筆 栃尾江美

後編につづく